ふるい西部劇やそのほかの視聴DVD、およびそのほかのことなど Ⅴ-3
••••神吉三郎訳の『森の生活』が目に入った。すぐに手にとった。去年、岩波と角川の文庫本を読んでいた。前者はたくさんのモノクロ写真入りで目にも楽しい。後者は気取りのないフレンドリーな訳文が魅力だ。前者、岩波の旧版が神吉三郎の訳である。むかし、かれの訳でベーコンの『随想録』を読み、その口調に惹かれ、『森の生活』も読んでみたいと思っていたのだ。だいたい何でも新版のほうが訳も正確で、表現もわかりやすいのが普通だ。一方で、ふるい時代の訳文の持つ、
馴染みのない用語や、切り詰めた硬い言い回しには新鮮な感じがある。すっと理解ができず、む?と黙読が停止する。流せず考え込む。そこがいい。改札を出ると古本市の幟がみえた。乗り換え途中にも関わらず、のぞきに行ってしまった。本を増やさない一番は本屋に行かないこと、とよくいう。部屋に物が溜まってゆくのは苦手なので書籍もすぐに処分する。しかし幟をたてられちゃ、いっちゃう。処分しちゃ、また増えるわけだ。できれば部屋には一冊の本もなし、にしたいのに。
読み終えた書籍は、皮膚に吹き出た垢のように消し去りたい。読んだ知識や意見は、その都度、こころから洗い流したい。パリの詩人に歌われた赤毛の少女が「痩せた裸のからだに香水も真珠もダイヤもつけずに」たったひとりで街ゆくように、有益な知識も鋭い意見も持たず、さっぱりした心でいきたい。ずっとそう思って来たものだ。子供が書いては消して遊ぶマジックパッドみたいに、ありたいと。そのマジックパッドでさえ使い続けていると、うっすらと落書きした跡がついてくる。
わたしの心にも腐った知識や干からびた意見が、重箱の隅の食残しか、お尻の周りの拭き残しみたいに、こびりついているのだ。気色が悪いぜ。セリーヌのちっちゃな女の子たちは、そんなものは、ものともせず「お尻のうんちのかけらなんてへっちゃらよ、いつだって天国さ!」と喚きながら霧と泥の中を飛び跳ねる(こいつら、大胆不敵なまでの超絶夢想家なのだ)。どっぷりと、霧と泥の老境に足をとられているわたしには真似のできない酔狂である。せめて、埃や屑が鬱積した心を、
暴風のただ中にさらし「ボロボロの幟のようにはためかしたい」ものだ。心や幟は時を経て襤褸になるが、本の中のふるい時代の言い回しは、今また、ふるいがゆえに目新しさとなって、わたしを楽しませてくれる。神吉三郎の訳文で、む?となった箇所を逐一、岩波の新版と角川版とをたよりに、意味するところがすんなり気持ちに添えるまで、あれこれやっていたら、二カ月もたってしまった。これで細部の字面の意味は何とか理解できた。ここで一息入れて、このあとの楽しみは、
ゆっくりと通して読んで、面白いところを面白がるだけだ。この一息は、珍妙な美味しさを誘う、はじめて食べるサラダを前に、個別の野菜を並べ替えたり、あれこれ香辛料をふりかけたりと、自分の好みに味を調え終えて、それを食べる前の小休止だ。ラップをかけておこう。ほかのことをやっている間に味が逃げないように気をつけて。神吉三郎訳でわたしが好きな一行は、例えばこれ。「想像を反発させないほど単純で清潔な食事」。内容の好き嫌いではない(わたしは根っからの、
意地汚い大食漢だ。ガリガリの)。「想像を反発させない(させる)」という言い回し。この言葉遣いは読んでいるわたしを強引に立ち止まらせ、突っかかってきて、あれこれとわたしに想像を強要してくるものがある。ほかの訳文では「想像力を損なわない(害しない)ような〜」である。すごく、わかりやすく、まっとうな表現である。この『森の生活』、わたしの魂の初版本は真崎義博訳による宝島社版。(魂の初版本とはある人の用語で、まあその人がはじめて読んだ版、ということ)
この流れで、数十年ぶりに真崎義博訳の小説が読みたくなって、先日さっそくネットで探して(本を増やさない一番は、ネットショップを開かないことだよな)取り寄せ、『森の生活』の合間に読んでいたところ、これが