しゃべって、晴れ。

古い西部劇とその他のDVD、あるいは何かについてただおしゃべりしているだけのモノクロブログ。

おしゃべり 3

  だまし、罠、密告、裏切り

 

最初のワイルド•バンチを率いた伝説のアウトロー、ビル•ドゥーリンの行状とその顛末を描いた『シマロン•キッド』。信頼する保安官の助言にしたがって罠にはまったのを皮切りに、裏切られ、だまされ、密告され、罠にはめられてと••••。アウトローの話とは逃亡と相互不信との連続である。その危険とスリルとが、ぬくぬくとした生活(とりあえずの間、なのだが)を、ぼんやりと送るわたしの心をしびれさせてくれるのです。

 

そこで願うのだ。アウトローアウトローのままエンド•マークのむこうに逃げ切ってほしいと。うまくいかず正義の銃弾に斃れたとすれば、それはそれでアウトローを全うした見事な最期であり、わたしは大満足だ。捕縛されたとしてもかれには、悔悛の情をみせたり、良識ある生活人になったりしてほしくない。そんな思いのためなのでしょうか、この西部劇のラストに、む?となってしまったのは。

 

わたしがどう願おうと、どの西部劇中のアウトローも夢みているのだ。最後に一発大勝負をしかけ、見知らぬ土地で真新しい人生を送ることを。ビルも約束を交わしていた。これまでビルの逃亡を手助けしてくれてきた牧場主の娘✳✳✳と。いずれふたりで南米へ旅立つことを。さて死んだと思っていた仲間のひとりが、でっかい列車強盗の話を持ち込んできた。計画は完璧だ。ビルは決行した。

 

見事にはめられた。仲間はつぎつぎと射殺され、ビルはなんとか先の牧場主のもとへ逃げ込んだ。✳✳✳に「あす早く旅立とう」というや、疲労困憊のビルは眠りに落ちた。ここからがすごい。画面中央でひそひそと話す牧場主と✳✳✳、何やら秘密めかした雰囲気が漂っている。画面のなかで、このふたりだけから照明がだんだん落ちてゆき、とうとうふたりは真っ黒になってしまった。

 

全身真っ黒となった✳✳✳にカメラがゆっくりと近づいてゆき、その黒焦げの顔をクローズアップでとらえる。これは、怖い。人間の邪悪な深い心理をみせられたようで、あるいは何か不吉なことの予兆であるかのようで••••。夜が明けた。ビルと✳✳✳は馬小屋へ急ぐ。出発をまえにかたく抱き合うふたり。✳✳✳の手がそっと伸びビルの腰から、かれの二丁拳銃を抜きとった。

 

小屋の板壁のすき間のあちこちからビルに向けられている銃口の数々。小屋の入り口に追っ手の隊長が立っている。ビルはいま、すべてを悟った。厳しい表情のビルに✳✳✳が「違うのよ、話をきいて」。彼女には目もくれず「話すことは何もない」と言い放ち、静かに入り口のほうへ歩を進めるビル、かっこいいですね、このハードボイルドタッチのクールさは。ここでエンドマークを出してほしかった••••。牧場主がビルに、さとすようにいう

 

「おまえの命を救うにはこうするしかなかった。務めを終え、晴れてふたりで旅立つのだ」「まってるわ」。納得と安堵の表情をみせ、無言でこたえるビル••••そのように、わたしにはみえたのたのだが。これは将来的に約束されたハッピーエンドである。前夜の真っ黒になった牧場主と✳✳✳の場面は主張しているのではないのか、ふたりの当局への通報が密告であり、裏切り行為であると。

 

それが一転、ビルの生命救助とビルの更生という、ヒューマンなところに落ち着いてしまったのだ••••む?。1952年カラー、バット•ベティカー監督。主演のオーディ・マーフィと、うりふたつな作品。つまり胡椒は小粒でもピリリッと辛いといった(かれは童顔、短躯)切れ味、テンポのよい快作。かれ(オーディとビルの両方)の誠実な人柄を思うと、映画のラストもあれはあれで••••。[記憶のみによる記述のため細部に誤りがあるかもしれません]

 

おしゃべり  2

  甘やかな踊り子アン・ドヴォルザーク

 

農民と牛飼いどもとの抗争を背景に、その牛飼いどもの保安官に対するお礼参りを描く西部劇『静かなる対決』。農民と牛飼いの争いといえば『シェーン』が有名だ。また悪党どもの保安官への復讐という話からはすぐに『真昼の決闘』が思い出される。これら三作品における内容のちょっとした違いについては【おしゃべり1】で語ってみた。だが『静かなる対決』が他の二作品と大いに違うのは、これが娯楽西部劇というところでしょう。

 

情景の叙情的な見せ方、緻密にして余韻を感じさせる人物心理の描写、などの点で『シェーン』は少々(わたしには)文学的がかっている。『真昼の決闘』のほうは①物語の進行時間と映画の上映時間が一致しているとか②主人公の保安官がふつうの西部劇のヒーローとちがい、リアリに怖がったり苦悩したりするなど、要するに、いいたいことを持っている、おかたい西部劇である。

 

『静かなる対決』はというと、まずは何よりも正統派の娯楽西部劇である。色気もあれば笑いもある。そこで、その部分をスルーするとなると、この作品に対して失礼というものだ。主人公の保安官は、酒場で花形踊り子✳✳✳をみつめ「下品だなあ」とつぶやいているが、「彼女にぞっこんだね」と話かけた酒場の主人をソッコーで殴り飛ばす。図星、ぞっこんなのだ。

 

✳✳✳は裸同然の衣装でゆるやかに身をくねらせ、むき出しの脚を宙に放り投げ、クイックイッとお尻をふっている。西部劇のなかにはディナーショーなみに洗練された歌や踊りが登場することもある。この映画の演し物はそれとは対極的でなかなか扇情的だ。とはいえ決して下品な感じではない(保安官も本気でそう思っているわけではなかろう)。✳✳✳の踊りには、むっちりしとした柔和さがあり、全身から甘っ娘のような雰囲気が漂ってきます。

 

素朴で気取らない親密さがあります。わたしは✳✳✳を演じるアン•ドヴォルザークのコケティッシュなかわいらしさに見惚れてしまいました。✳✳✳は舞台をおりるとなかなか気の強い女の子で、「きみにはエプロンのほうがよく似合うよ」と、遠まわしに求婚する保安官のスネを毎回繰り上げるのだ。ふたりが素直になってしっかりと抱き合うのは、お礼参りの牛飼いどもが酒場を滅茶苦茶に破壊する場面においてだ。

 

大騒動のさなかにおける唐突な愛の成就は、さすが娯楽西部劇といったところだ(それに危険や災難のなかでこそ愛は激しく燃え上がる、ともいう)。エドガー・ブキャナン演じる郡保安官(シェリフ)についてもひとこと。樽のように太って、秘密めかした低いだみ声、デカい赤児といったのろい動き、怪しげなおやじだ。職務怠慢で、いつも女性相手にカードゲームである(そして、いつも負けている)。

 

犯人を追わないどころか、逃亡の手助けとしか思えない行動をやらかす。それでも主人公の保安官(こっちは町のマーシャル)が犯人捕縛の手柄を譲ってくれると、困惑と照れと喜びのうちに、ちやっかりと自分の手柄に。この世渡りじょうずめ(まあ、憎めない奴なのだ)。思うに、この郡保安官、悪党ではなかろう。だが大なり小なり、その世界と裏で通じていてウィンウィンの関係を保っているのだ。

 

この世から悪がなくなることなんかありえない。うまく付き合うのが世俗の知恵というものさ••••これがかれの信条なのだろう。この(魅力的な)たぬきおやじめ。1946年モノクロ、エドウィン•L•マリン監督。最初はこっちがヒロインかと勘違いしてしまうお嬢さん役でロンダ•フレミング![記憶のみにたよった記述のため、細部に誤りがあるかもしれません]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おしゃべり 1

  原題は『アビリーンタウン』

 

ひとりのカウボーイが酒場で問題をおこした。ボスの✳✳✳はその処遇をめぐり町の保安官と激しく衝突した。町への出禁を言い渡す保安官。とうてい我慢がならない✳✳✳は「かならず戻って来るからな。そしてこの町をずたずたに切り裂いてやる」とすごむと、配下のカウボーイどもを引き連れ町から去っていった。西部劇『静かなる対決』である。

 

悪漢どもの保安官への復讐という話ですぐに思い出すのは、あの有名すぎるほど有名な『真昼の決闘』だ。物語が進む時間と上映の進行時間が一致しているとか、西部劇の主人公のくせして、やたら普通の人なみに弱気を見せたり苦悩したりするとか••••まあ、いいたいことを持った高級西部劇なのだ。『静かなる対決』は笑いも色気もあるモノホンの娯楽西部劇です。

 

どちらの作品でも、悪漢どものお礼参りをまえに、町は恐怖と混乱に陥ってしまう。『真昼の決闘』の主人公である保安官に加勢をしようというものなど、ひとりもいない。町の要人は、新妻を連れてはやく町から出ていくよう、かれに要請する。『静かなる対決』も同様だ。大商店の経営者(町の中心人物)が、バッジをはずすよう保安官を説得しようとする。

 

『真昼の決闘』の主人公はとうとう孤立無援のうちに悪漢どもを迎え撃つことになった。『静かなる対決』のほうはというと、これがなかなか興味深い展開を見せてくれるのだ。この映画の舞台であるアビリーンの町は長くて困難なキャトルドライブの終着地である。牛飼いたちの休息地であり歓楽の町である。牛飼いたちによって栄えてきた町なのだ。

 

そこへ農民の一団が入植してきたことで、両者の間に軋轢、そして衝突が起こるようになってしまった。これがこの映画のシリアスな側面のほうの筋立てだ(別な側面はもちろん主人公のラブロマンスです)。牛飼いと農民、そして町民という三者の緊張関係が話を面白くしてくれる。それに、荒くれとはいえ牛飼いは牛飼いだ。『真昼の決闘』のアウトローではないのだ。

 

この町の住民は商人たちである。経済第一のかれらは、はじめは恐怖一辺倒だったが、すぐに損得の観点から状況を点検しはじめた。付き合う相手を牛飼いから農民に切り替えたほうがより利益を生むのではないか。農民はおとなしく、定住だ。農民の数、一家族の物品購買回数、農作物の出来高予想などをつぶさに算盤勘定する。

 

主だった住民が集まりみんなで議論を戦わせる。ビジネス魂全開のこの白熱シーンこそが、実は『静かなる対決』一番の見どころなのかもしれません。そんな面白さです。農民たちが徹底抗戦の構えであることを知り、町民はかれらとともに、牛飼いと戦うことを決心した。農民と牛飼いとなると、『シェーン』などでもそうだか、どうしても牛飼いのほうが悪者にされてしまう。

 

『シェーン』では両者のそれぞれの代理である主人公とプロの殺し屋が対決するが、『静かなる対決』のクライマックスは、全農民と全町民の連合隊とかれらに挟みうちにされた牛飼いどもの直接対決だ。圧倒的多数をまえに、牛飼いどもに勝ち目はない。戦わずして尻尾を巻いて町から退散だ。アビリーンは血を流すことなく、静かに厳かに、勝利を手にしたのだった。

 

この直前に牛飼いどもが酒場を滅茶苦茶にぶっ壊す場面があり、その騒動のなかで、ボスの✳✳✳は保安官に射殺されてしまう。酒場の主人はどっちのサイドにつくべきか最後までぐずぐずだった(牛飼いたちの散財で大いに店が儲かっていたわけだからね)。が、結局最初にお礼参りをされることになってしまい、かわいそうに本人もボコボコにされちゃったよ。

 

エドウィン•L•マリン監督、1946年モノクロの楽しい娯楽西部劇。その楽しい側面も語らなければ片手落ちというというもの。それはまた。[記憶のみによる記述のため、事実とことなる点がある可能性があります]